飛砂に挑んだ先人たち |
「能代砂丘がいつごろ出来たのか?」 『能代市史特別編「自然」』39ページの「3.砂丘の形成史」によると、11世紀後半の平安時代終わりころから16世紀半ばまでは飛砂の休止期があったようだ。 江戸時代に入り、町が飛躍的に拡大しているから、飛砂があったとしても人々の住環境を脅かすほどではなかったと思われている。 しかし、江戸時代の中ごろ、18世紀に入って間もない正徳から享保年間に、能代の町人越後屋太郎右衛門・越前屋久右衛門が砂留めの事業を始めた。そのころから飛砂が激しさを加えたのだろう。清助町や鍛治町の町屋が飛砂のために埋もれるという被害があったという。 また同書(『能代市史特別編「自然」』)586ページによると、 「能代町を飛砂の害から救った砂防林の造成は、18世紀初頭の正徳・享保のころからである。能代の有力問屋越後屋太郎右衛門と越前屋久右衛門が始めて、宝暦のころから鈴木助七郎・白坂新九郎・賀藤景林・同景琴へと引き継がれていった。彼らが手がけたところは、現在では図環-28に見える老齢林のわずかなところしか残っていない。大正4年、能代公園の拡張で松林が伐られ、同じ年に能代工業学校の校舎建築で伐られ、第二次大戦中には松根油の生産で林縁が伐られ、第一次大火(昭和24年)後の墓地公園や住宅地の造成などで伐られていった。砂留山から南方の、大内田村・河戸川村・浅内村に所属する砂防林も、藩政期に長崎の袴田与五郎、河戸川の大塚甚十郎、浅内の原田五右衛門らの尽力と栗田定之丞の指導で相当の面積があったが、大部分は住宅地に変わっていった。 もちろんこのような先人たちの業績が今日の砂防林に繋がっていることは論を待たないが、現在の砂防林は大正期以降の成立というべきものであろう。 ※ 図環-28と同様の地図をWordで作成し、「風の松原の地図」にPDFファイルで掲載しました。 |
●江戸時代以前、海岸一帯は飛砂に襲われ、家屋や耕地が埋没、さらには河口が閉塞するなどの被害を受け、現在では想像を絶する惨状であったことが古記あるいは口碑によって伝えられています。 |
●このような状態では町は発展しないと、1670年頃、医師長尾祐達が海岸砂留策(防止工事)を唱え、実施しましたが、祐達の死後も彼の熱意は、町の人々に受け継がれていきました。 |
●1711年、回船問屋越後屋(渡辺)太郎右衛門、庄屋村井久右衛門の両名は、自費で松の植栽を行いました。その後、越後屋家は1800年まで三代にわたり、村井家では1764年まで両人の意志が引き継がれ、約80万本の松を莫大な費用をかけて植栽したといわれています。 ●砂防林造林には両家だけではなく、一介の武士や多くの無名の町民も力を尽くしました。寛永9年、秋田藩士栗田定之丞は砂留役兼材取立役として海岸一帯に植栽。その後を受けて秋田藩木山方、賀藤景林は天保4年(1833)までの多年に渡り、76万本の松苗を植えさせ能代町民を飛砂の被害から救ったといわれています。 |
加藤景林 像 |
大正時代の飛砂との戦い |
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『能代市史特別編「自然」』586ページによると、「明治維新後、政府の林業政策は混沌とし、砂防林は荒れるにまかされ、林相は衰微の一途をたどった。富樫兼治郎『日本海北部沿岸地方における砂防造林』によれば、明治期に林内でハマナスの根を乱掘した結果だという。ハマナスはクロマツの根付きを助ける役目をしていた。 その結果、大正期に入ってにわかにクロマツが飛砂に立ち向かう力を失い、枯死・倒木するものが激増した。写環-42・43はその一場面だが、クロマツの皮は剥がれ、倒れている鳥居は大森稲荷神社のものである。図環-28を見れば大森稲荷神社の西方から南方にかけて、昭和戦前期の造林地が広く見える。おそらくこの範囲が飛砂に襲われ、被害を受けたところであろう。 大正期の飛砂は、写環-42・43の写真でその激しさを想像することができる。前者は大正9年、後者は同12年と記録されているが、特に前者のクロマツの密生状態に注目したい。これは拓伐がほとんど行われていないこと、倒木の整理も行われていないことがわかる。また、幹の太さから見ると植え付けてからそれほどの年数は経っていない。明治期の植栽であろうと思われる。政府は植栽を行ってもその管理に不十分な面があったのである。町民が林内に立ち入り、落ち葉・枯れ枝・ハマナスの根など残りなく取ってしまい、クロマツの生育に支障を来したという。そこで大正8年にはこの後谷地国有林の管理を能代港町に委ね、能代港町は森林監督官を1人置いて、付近住民の入林を厳しく取り締まることになった。その効果が現れる前に、飛砂の被害を受けることになったのである。 |
昭和になってからの砂防林造成 |
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昭和になってからの砂防林造成については、平成13年3月東北森林管理局 米代西部森林管理署から刊行された『風に学んで 能代海岸砂防林の造成の記録』に詳しく述べられている。この本は元能代営林署職員であった鈴木重孝氏が昭和30年代に撮影した写真をもとに作成されている。この本の写真を使った「森を作るということ」というホームページがあるので、参照していただきたい。そのホームページはきこりのホームページの中に入っている。詳しくはわからないが林野庁かその外郭団体のページではないかと思われる。 |
風の松原の歴史 |
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時 期 |
西暦 | 和 暦 |
事 項 |
室 町 |
1533 | 天文 2 |
★檜山城主安藤氏が清水治郎兵衛政吉を野代村の長とする。(野代は 日和山の下姥が懐にある15軒ばかりの漁村であったが、米代川の港口 で木材取引上のためという)。 |
1556 | 弘治 2 |
★清水政吉、能代浜からの飛砂の害を免がれるため東方の野中に村を 移す。 |
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江 戸 |
1670 ころ |
寛文 10 |
★医師、長尾祐達が砂防を提唱し、海岸に植林を始める。※長尾家過 去帳によると祐達は(宝暦元年(1751)、同3年(1753)、文化4年(1807)没)の3人 おり、寛文年間の人というのは無理。 |
1700 ころ |
元禄 13 |
能代は飛砂で住居や耕地が埋まる被害が多く、秋田藩でも飛砂防止対 策に着手。 |
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1711 | 正徳 1 |
★清助町付近の風砂がひどく、船問屋越後屋太郎右衛門(休慶)が自 費で黒松を植林。 |
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1713 | 正徳 3 |
★このころから越後屋(渡辺)太郎右衛門、村井久右衛門ら自費で能代 後谷地等70町歩に砂防用松苗を植林。 |
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1723 | 享保 8 |
★渡辺太郎右衛門が砂留普請に着手し、3年にわたり施業。 | |
1744 ころ |
延享 1 |
能代給人 白坂新九郎、鈴木助七郎が砂留役となり、長尾祐達の遺志を 継いで砂留造林事業継続。 |
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1755 | 宝暦 5 |
★このころ浅内の肝煎原田五右衛門、福田の野呂田八郎右衛門と協力 し、自費で砂留のため砂防松苗を増植。このころ上記2人と河戸川の大 塚甚十郎、長崎の袴田与五郎などが砂防林を造成。 |
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1772 | 安永 1 |
★安永年中に白坂新九郎、砂防の功労によって藩主より新知10石加増 される。 |
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1782 | 天明 2 |
★原田五右衛門が本郡沼田村の飛砂防禦指図役の任をとる。 ★村井久右衛門永年にわたる砂留の功により、生涯御蔵米50石下付さ れる。 |
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1786 | 天明 6 |
★浅内村福田の野呂田八郎右衛門が肝煎役を命じられ、開墾と砂防に 尽力す。 |
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1797 | 寛政 9 |
★大内田村長崎の袴田与五郎が私費をもって砂防林の造成に着手。 郡方砂留吟味役栗田定之丞、藩内海岸の砂防林造成に着手。 |
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1820 | 文政 3 |
★栗田定之丞、植林事業一応終了。 | |
1822 | 文政 5 |
賀藤景林、能代木山方(兼務)となり、砂防林造成も担当。1833年までの 12年間に約70万本植栽。 |
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1833 | 天保 4 |
★賀藤景林能代海岸の植林終了。 | |
1836 | 天保 7 |
賀藤景琴、父の業を引き継ぎ、その後、松30万本植栽。 | |
1850 | 嘉永 3 |
町民が樽子山に景林の石碑を建てる。このころ藩政時代最後の植林が 行われた。 |
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1857 | 安政 4 |
賀藤景琴、天保7年よりこの年まで能代海岸に松苗30万本植栽。 | |
明 治 |
1880 |
明治 13 |
このころ前砂丘に自生するハマナスの根の乱採や牛馬の放牧が行わ れ、砂防林は危機的状況となる。 |
1892 |
明治 25 |
能代小林区署創設。(現米代西部森林管理署) | |
大 正 |
1912 |
大正 1 |
このころ砂防林らしきものは大森稲荷神社付近や下浜付近に残るのみだ った。 |
1918 | ★能代公園に景林神社建立。 | ||
1921 |
大正 10 |
後谷地で国営造林事業開始。富樫兼治郎氏が大学を卒業し能代小林 区署に赴任。 ★営林署海岸林植栽を計画、着手。 |
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1924 |
大正 13 |
この年から昭和3年までの5年間に黒松7万5千5百本植栽。また昭和4 年までに7万4千本補植。 |
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昭 和 |
1926 |
昭和 1 |
このころから小松原付近で植林が始まる。 |
1932 |
昭和 7 |
西山下で県営造林事業開始。 | |
1937 |
昭和 12 |
『日本海北部沿岸地方における砂防造林』(富樫兼治郎著)刊行 | |
1943 |
昭和 18 |
砂防林の造林地(小松原)から出火、約21ヘクタールを焼き尽くす。 | |
1944 |
昭和 19 |
この年も植林を実施。青年学校で植林の勤労奉仕。このころ軍の命令で 松根を掘って乾留し松根油を作る。 |
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1948 |
昭和 23 |
戦後始めて砂防林植栽事業を再開する。 | |
1950 |
昭和 25 |
『能代営林署管内後谷地国有林に於ける松穿孔虫の生態調査につい て』の論文発表(能代営林署技官住友重久氏) |
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1952 |
昭和 27 |
能代市が砂防林の恩人として吉成貞助氏と富樫兼治郎氏を表彰。 | |
1962 |
昭和 37 |
浅内浜に東京大学ロケット燃焼実験場が作られる。 | |
1970 |
昭和 45 |
このころ砂防林植栽事業が完成した。保育作業は現在も行われている。 | |
1971 |
昭和 46 |
第4次港湾整備計画(臨海工業団地造成)で砂防林伐採をめぐる論議お こる。 「砂防林を愛する会」結成、伐採計画の変更を求める。74年、伐採幅 100mで決着。 |
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1977 |
昭和 52 |
中央衛生処理場が河戸川字西山下に完成。 | |
1978 |
昭和 53 |
初回砂防林クリーンアップ(能代青年会議所主催)。その後継続実施。 火力発電所立地のため環境調査開始。 |
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1982 |
昭和 57 |
火力発電所建設の埋め立て工事開始。 | |
1983 |
昭和 58 |
日本海中部地震。砂防林が津波の力を弱めることを実証。 | |
1987 |
昭和 62 |
「砂防林を活用する市民の会」結成。市の公募により愛称「風の松原」と 決定。 このころからニセアカシアの繁殖顕著。能代市が「いこいの広場」等の整 備を開始。 |
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平 成 |
1989 |
平成 1 |
日本五大松原サミットが開催される。 |
1990 |
平成 2 |
「風の松原を育てる市民の会」発足。南西山に能代市木の学校がオープ ン。 |
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1991 |
平成 3 |
台風19号(瞬間最大風速44m)のため風の松原の倒木は松●本、ニセ アカシア5000本。 |
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1992 |
平成 4 |
海詠坂に能代山本広域交流センターがオープン。 | |
1993 |
平成 5 |
大森山に能代火力発電所(石炭)が運転を開始。 | |
1995 |
平成 7 |
海詠坂に県立木材高度加工研究所がオープン。 | |
1999 |
平成 11 |
松くい虫が北上、後谷地国有林にも侵入、被害発生。 | |
2001 |
平成 13 |
「風の松原に守られる人々の会」発足。 | |
2004 |
平成 16 |
台風15号(瞬間最大風速38m)のため風の松原の倒木はニセアカシヤ ●本。 |
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2005 | 平成17 | 3月 健康づくりのみち第1期工事完成 | |
2006 | 平成18 | 3月 健康づくりのみち第2期工事完成 |
能代砂防林の300年(私のふるさと学習) 浅野ミヤ著 |
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